大塚英志
大塚英志(おおつか えいじ、1958年8月28日 - )は、日本の評論家、研究者、漫画原作者、小説家、編集者、元漫画家である。2012年から2024年まで国際日本文化研究センター研究部教授であり、同名誉教授。2006年から東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。
概要
1958年8月28日東京都田無市(現・西東京市)生まれ。1981年3月筑波大学第一学群人文学類卒業。高校時代は漫画家をしており、大学卒業後は編集者となり、その後、漫画原作者、評論家、小説家、大学教授になった。
大塚は、徳間書店でアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり1981年から1988年まで働いていた。また、フリーの編集者として白夜書房では1983年から1985年まで、角川書店の子会社の角川メディアオフィスでは1986年から1992年まで働いていた。
大塚の著書の『「おたく」の精神史――1980年代論』『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』は大塚の編集者時代を回想した三部作である。 『「おたく」の精神史』では白夜書房時代と徳間書店時代、『二階の住人とその時代』では徳間書店時代、『日本がバカだから戦争に負けた』では角川メディアオフィス時代をそれぞれ回想している。
1987年に大塚は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にて漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、1987年 - 1990年連載)にて漫画原作者デビューした。漫画原作者としての仕事も多く、代表作としては『多重人格探偵サイコ』『黒鷺死体宅配便』『リヴァイアサン』『木島日記』『アンラッキーヤングメン』『恋する民俗学者』など。自作のノベライズや、映像化や舞台化の脚本も行っている。
また、1987年に漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家デビューした。大学でのキャリアを断念した民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。サブカルチャーに詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。大塚は1988年に評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした。
『物語消費論』では、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。物語消費の概念は、東浩紀の著書『動物化するポストモダン』で参照され、同書で展開した概念である「データベース消費」に多大な影響を与えた。
評論対象は多岐にわたり、『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年2月)、『更新期の文学』(2005年12月)、『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書、2007年2月)のような文芸評論、『彼女たちの連合赤軍』のようなフェミニズム論、『戦後民主主義のリハビリテーション』のような戦後民主主義論、『少女たちの「かわいい」天皇』『「おたく」の精神史』などの戦後日本論、『戦後まんがの表現空間』『アトムの命題』などの漫画論、『「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男』(角川選書、2006年12月)、『公民の民俗学』(作品社、2007年2月)、『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店、2007年5月)などの民俗学論、『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(2000年11月)『ストーリーメーカー』などの創作論、など多彩かつ旺盛な執筆活動を続けている。
経歴
生い立ち1958年8月28日東京都田無市(現・西東京市)生まれ。父が満州からの引揚者だったため、工業排水が混じったドブ川沿いにあり、台風のたびに床下浸水する劣悪な環境の引揚げ住宅で大学入学まで暮らしていた。父は元日本共産党員だったが、60年安保が終了したころに離党した。
父は大塚が1歳ごろに経理関係の事務所を経営していたがすぐに失敗したため、大塚一家は困窮した。その後、大塚の父は会社を転々としながら経理の仕事で家族を養っていた。
中学生の時に漫画同人集団「作画グループ」に入会したのがきっかけで、高校1年生より漫画家のみなもと太郎のアシスタントを始める。
高校2年生の時に、みなもと太郎が締め切りに間に合わなかった連載の代理原稿に自分が描いたギャグ漫画が採用されたのがきっかけで、ギャグ漫画家としてデビューする。大塚が描いたギャグ漫画は学研の中学生向けの学習誌や『漫画ギャンブル王国』(海潮社)に掲載されていた。なお、『漫画ギャンブル王国』は成人雑誌だったが大塚が描いていたのはポルノではなくノーマルなギャグ漫画だった。
当初は経済的な理由で大学進学は断念して、高校卒業後は地元の市役所の水道課に就職して、働きながら漫画家を続ける予定だった。しかし、両親が働きながら息子の学費を貯金してくれていて、国公立大学なら何とかなるのが分かったため大学進学を決意した。高校3年生の時に、師匠のみなもと太郎から『平凡パンチ』での連載を紹介されていたが、大学受験を機に自分の才能に見切りを付けて、その連載の話を辞退して1年で漫画家を引退した。みなもと太郎のアシスタントそのものは、大学卒業ごろまで不定期のアルバイトで手伝っていた。
高校の現代国語の授業で柳田國男の『雪国の春』を読んで感動したのがきっかけで、民俗学を勉強したくて筑波大学第一学群人文学類に進学した。大学では民俗学者の千葉徳爾と宮田登の指導の下で、日本民俗学を勉強した(千葉は柳田國男の直系の弟子だったため、大塚は柳田の孫弟子になる)。千葉徳爾は大塚の在学中に定年退官したため、大学生時代の4年間のうち、最初の3年間が千葉徳爾、最後の1年間だけ宮田登の指導を受けた。大塚は大学在学中に民俗学のフィールドワークの費用を稼ぐために、「作画グループ」の先輩の沢田ユキオの紹介で、徳間書店の雑誌『テレビランド』で漫画家のアシスタントのアルバイトをしていた。
1980年代1981年3月筑波大学を卒業。当初は研究者を目指したが、『キネマ旬報』の映画投稿欄に映画評を投稿していたのを、指導教官の宮田登に読まれていたのがきっかけで、口頭試問で宮田登に「君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない」と引導を渡されて大学院への進学を断念した。大塚は教師も志望していたが、同時期の教員採用試験に落ちてしまったため、翌年の採用試験を受けるまでの生活費を稼ぐために、大学在学中に漫画家のアシスタントのアルバイトをしていたツテで、徳間書店の雑誌『リュウ』で編集者のアルバイトを始める。当初の予定では来年の採用試験までのツナギで、1年間だけ編集者をやる筈だったが、結局教師にはならずに編集者としての人生を歩むことになっていった。大塚はアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、徳間書店では1981年から1988年まで働いていた。
大塚は最初の半年は、『リュウ』の編集長格の校条満に編集者の仕事を教えてもらった。その次に、校条満が担当していた漫画家の石ノ森章太郎と、モンキーパンチと、安彦良和の原稿の受け取りの仕事を担当した。この時に石ノ森章太郎から漫画のネームの見方について徹底的に指導された。後に石ノ森章太郎が『リュウ』に連載していた漫画『幻魔大戦』の打ち切りが決定したときは校条満の指示で大塚が石ノ森に打ち切りを宣告しに行った。その後、校条満から徳間書店に漫画の持ち込みに来た新人の対応を任せられるようになり、その一人だったかがみあきらと友人になった。
『リュウ』の編集部は、アニメ雑誌『アニメージュ』と同じ徳間書店第二編集局にあった。大塚は『アニメージュ』の創刊者であり、初代編集長の尾形英夫にフックアップされ『アニメージュ』編集部で働くことになる。この時期の『アニメージュ』副編集長は後にスタジオジブリのプロデューサーとして有名になる鈴木敏夫だった。大塚は『アニメージュ』1982年2月号より連載が開始された宮崎駿の漫画作品『風の谷のナウシカ』に、鈴木敏夫『アニメージュ』副編集長の指示で、連載第1回のみアシスタント業務に参加しており、原稿のスクリーントーン貼りを行った。また他誌に『リュウ』の交換広告を届ける過程で『ふゅーじょんぷろだくと』編集者の小形克宏と知己を得る。
1982年、大塚は徳間書店の美少女漫画雑誌『プチアップルパイ』の創刊編集長になる。この雑誌は大塚が徳間書店で最初に企画した雑誌だった。並行して大塚と小形は「ぼくらのまんが誌」を実現するため『漫画ブリッコ』の原型となるプロジェクトをスタートさせる(企画営業は小形がそれまでの活動で培った人脈をフィールドとして始められ、大塚が企画を主導する形となった)。1983年1月、大塚と小形の初コンビ仕事として『COMICキュロットDX』がセルフ出版から刊行。これが『漫画ブリッコ』のパイロット版となった。ほどなく大塚は憧れの編集者だった末井昭の下で働こうと思い、徳間書店との兼業で白夜書房(大塚が勤務した当時の社名は「セルフ出版」)のフリー編集者として働き始める。なお、大塚は白夜書房では1983年から1985年まで働いた。
1983年春、日本で2番目となる成人向けロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(83年5月号 - 85年9月号、セルフ出版→白夜書房)の編集人となる。この時期の大塚は平日の日中は徳間書店、平日の夜間および週末は白夜書房で編集者として兼業で働いていた。『漫画ブリッコ』の編集人となる条件は、『漫画ブリッコ』が万が一警察から警告もしくは摘発された時に、一人で責任を被って逮捕されることだった。元々、この雑誌は経営不振から半年後に廃刊が決定しており、大塚と小形はあくまでも残務処理担当として編集者を任されていた。
ここで大塚は、どうせ廃刊だから商売度外視で好きなことをやってみようと思い、徳間書店に持ち込みに来ていたオタク系の新人漫画家を大量に動員して、『漫画ブリッコ』83年11月号より表紙を少女漫画寄りのイラストに差し替えて、美少女コミック誌としてリニューアルした。その結果、『漫画ブリッコ』リニューアル号は完売したため廃刊は撤回され、会社から引き続き美少女コミック路線で続行することを命じられた。特に、大塚英志は『漫画ブリッコ』にて友人でもある漫画家のかがみあきらの『ワインカラー物語』(「あぽ」名義、83年10月号 - 84年4月号連載)の連載を担当していた。『ワインカラー物語』は本筋のラブコメとは別に、かがみあきら本人と大塚英志がモデルの編集者キャラ「オーツカ某」の2人が毎回登場して、楽屋落ちのネタをやるのが定番のギャグだった。「オーツカ某」というキャラクターを作ったのはかがみあきらであり、そのキャラクターは『漫画ブリッコ』に掲載されている他の作家の漫画にも楽屋落ち的に登場していくことになっていった。また、「オーツカ某」は大塚英志が『漫画ブリッコ』に記事を書く時のペンネームとしても使われた。その他に編集者としては、桜沢エリカ、岡崎京子、白倉由美、藤原カムイ、などの漫画家、映画イラストライターの三留まゆみ(早坂みけ)等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。後に大塚英志の妻となる白倉由美はこのころの担当漫画家だった。
1984年、大塚英志は白夜書房が経営する漫画専門書店『まんがの森』(同年10月1日に新宿店本店開店)の立ち上げに参加した。大塚は『リュウ』(徳間書店)のコラムで、編集していたミニコミ誌を特集したことがあったおしぐちたかしを『まんがの森』の初代店長にフックアップした。大塚は同人誌系の人脈をおしぐちたかしに紹介し、『まんがの森』で岡崎京子、桜沢エリカのサイン会を実施した。また、おしぐちたかしは2018年のインタビューで『まんがの森』立ち上げについて、「あの店の立ち上げ時の半分くらいは、大塚(英志)さんのアイデアが組み込まれている。」と発言している。このころ、白夜書房のミニコミ誌『白夜通信』で書いた文章を評価した『漫画ブリッコ』担当営業の藤脇邦夫に業界誌『新文化』を紹介され、コラムを書き始める。
同年より、大塚英志は徳間書店にて校条満と共に、少年向けマンガ雑誌『少年キャプテン』立ち上げに参加する。同紙の企画書は大塚英志が描いたとのことである。大塚の企画案では雑誌タイトルは『ZERO』であった。大塚は看板作家にかがみあきらを置く予定であり、かがみの才能があれば雑誌を成功させられると確信していた。また、同紙で大塚はかがみの他に、高屋良樹の『強殖装甲ガイバー』とあさりよしとおの『宇宙家族カールビンソン』の担当編集者だった。『強殖装甲ガイバー』は高屋に「仮面ライダーみたいなまんが描いて」と依頼した。
しかし、1984年8月9日にかがみあきらは自宅で急死してしまう。かがみあきらが亡くなったのは、白夜書房よりかがみの単行本『ワインカラー物語』が刊行されたのとほぼ同時期だった。大塚が白夜書房にかがみあきらの急死を連絡すると、直ちに『ワインカラー物語』の単行本を重版しようと提案されたことで、担当営業の藤脇邦夫と口論になり、大塚は白夜書房に対する忠誠心を失った。かがみあきらが亡くなった半年後、大塚は『漫画ブリッコ』紙上で会社に無許可で同紙の休刊を予告したため、社内で問題になり、『漫画ブリッコ』85年9月号にて編集人を降板した。この休刊の背景には、前述の藤脇との対立に加え、大塚が企画や原案に関与し、白夜書房から発売された18禁アニメビデオ作品『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』の売れ行き不振があった。
一方、徳間書店の『少年キャプテン』はかがみあきら不在の状態で、1985年1月22日創刊した。創刊編集長は校条満だった。創刊号は実売発行部数12万部で完売した。また、同紙連載漫画の単行本も順調に売れていた。しかし、看板作家のかがみあきらの不在や、自社で新人漫画家を育てようとしていた編集部と、大手出版社からベテラン漫画家を引き抜こうとしていた徳間書店上層部との方針の食い違い等が重なり、『少年キャプテン』は徐々に迷走していった。『少年キャプテン』は実売発行部数が20万部で頭打ちになった時点で、校条満が責任を問われて編集長を解任され、これにより大塚も失脚・干されることになった。1988年に徳間書店を正式に退職するまでの最後の2年間は、月に一回ほど、担当の漫画家の原稿の入稿で会社に顔を出し、ササキバラ・ゴウなどの若手社員と話すだけだった。
親友だったかがみあきらが亡くなったのと、編集者人生を賭けたマンガ雑誌『少年キャプテン』が失敗したことで、ヤケクソになった大塚英志は、86年ごろから他社の中堅クラスの版元の漫画雑誌創刊に参加してはすぐに廃刊になるのを繰り返していた。このころに大塚が創刊に参加した雑誌には『週刊少年宝島』(宝島社)や『月刊コミックNORA』(学研)等がある。しかし、同時期に漫画業界への不平不満をぶつけて書いていた、業界誌『新文化』のコラムが好評となり徐々に評論家として認められていくことになった。大塚は翌1987年に、上記の『新文化』のコラムや、80年代前半の『白夜通信』に書いていたコラムをまとめた漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家としてデビューした。大塚は同時代のニューアカブームの影響を受け、大学時代に勉強していた日本民俗学と、フランス現代思想のポスト構造主義をミックスした評論を書いていた。大塚は特に、フランスの現代思想家のジャン・ボードリヤールの、「ポストモダン社会において、商品の価値は使用価値ではなく、記号的な広告価値で決定される」という思想に影響を受けた。大塚は後年、ボードリヤールを「80年代に、自分が最も心酔していた思想家」と回想している。
1986年、大塚英志が業界誌『新文化』に書いた当時の角川書店の企画や流通の問題点を批判したコラムを読んで激怒した、角川書店幹部(専務取締役)の角川歴彦に呼び出しを受けるというトラブルが発生する。大塚は、角川歴彦の側近の千葉孝を通してホテルのバーに呼び出され、大塚と角川と千葉の3人で話し合いになった。最初は冷静な話し合いだったが、次第に売り言葉に買い言葉で本気の口論となっていった。大塚は角川歴彦から「お前は理屈ばかりだ、悔しかったらヒット作を作ってみろ」と一喝されたのを受けて、「作ってやる」と啖呵を切って席を立ったため、大塚と角川の話し合いは20分ほどで終了した。しかしその数日後、今度は角川歴彦の別の側近の佐藤辰男を通して、角川書店の雑誌で「ゲームをベースにしたまんが」を作らないかとヘッドハンティングの連絡がきた。この時期の徳間書店での大塚は、大塚が育てた新人漫画家全員を、徳間書店の正社員の編集者に引き渡すように編集部から圧力をかけられているありさまだったので、この角川歴彦のヘッドハンティングに乗ることにした。こうして大塚は、角川書店の子会社で、角川発行の雑誌の編集およびキャラクター商品の開発などを担当する会社であり、角川歴彦がオーナーをしていた出版社角川メディアオフィスにてフリーの編集者として働くことになった。その際、徳間書店から「徳間ではいらない」と言われていた新人漫画家の、田島昭宇、円英智、羽衣翔の3人を徳間書店から許可をもらった上で角川書店に引き抜いていった。しかし、大塚が徳間書店を正式に退職するのは1988年なので、最初の数年間は角川メディアオフィスと徳間書店でフリーの編集者として兼業で働いていた。
1987年、大塚英志は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にてファンタジー漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、 1987年 - 1990年連載)にて漫画原作者デビューした。この時大塚は、大学時代に勉強していた「物語論」を参考にして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。大塚は、映画監督のジョージ・ルーカスが映画『スター・ウォーズ』のシナリオ制作時にアメリカの神話学者のジョーゼフ・キャンベルの物語論『千の顔をもつ英雄』を下敷きにした逸話を参考にして、『魍魎戦記MADARA』ではロシア民俗学者のウラジーミル・プロップの物語論『昔話の形態学』と、フロイト派精神分析学者のオットー・ランクの物語論『英雄誕生の神話』と、日本民俗学者の折口信夫の物語論『貴種流離譚』を下敷きにして、さらに手塚治虫の漫画『どろろ』と三島由紀夫の小説『豊饒の海』のキャラクター設定をミックスして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。『魍魎戦記MADARA』はヒット作となり、コミックの売上が10万部に達した時点でゲーム化が決定した。同作はその後大塚英志 によって「MADARA PROJECT」という名称のメディアミックス戦略が展開され、ゲーム化以外にも、小説・OVA・ラジオドラマ等へ幅広く展開したメディアミックスの先駆け的作品となった。大塚の回想によると、『魍魎戦記MADARA』のコミックスの売上は最終的に、コミックス各巻の売上がそれぞれ40万部に達した。
1988年、大塚英志は崩御する直前だった病床の昭和天皇を題材にした評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした。同評論は天皇制を擁護したともとれる内容だったため、大塚の回想によると右翼方面から歓迎されたとのことである。
以降の大塚英志は、80年代末から、90年代全般、2000年代前半にかけて『中央公論』『諸君!』『Voice』『論座』『正論』といった保守論壇系のメディアで評論家活動をしていた。
大塚は、思想的には比較的「左」の自分が保守論壇にいた理由について、当時の保守論壇は自分たちと立場・思想が異なる人間が評論を発表することに寛容であり、いい意味でゆるかったからと回想で述べている。
1989年、大塚英志は同年5月に刊行した評論『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年5月刊行)が広告業界からマーケティング理論として高く評価されたのがきっかけで、大塚は1989年から1993年ごろまで広告業界のシンクタンクにてマーケティング担当の評論家として雇われていた。この時に大塚が働いていたシンクタンクの一つがぴあ総研である。大塚はぴあ総研では「特別研究員」という肩書で1993年ごろまで働いており、若手の社会学者のスタッフとトレンドの調査研究をしていた。
1989年7月23日に犯人が逮捕された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件には衝撃を受け、即時に『漫画ブリッコ』での連載コラムで「おたく」という言葉を発明した中森明夫との対談集『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』を上梓。犯人が「おたく」だったのを事件の原因であるかのように決めつける風潮に異議を唱え、「(犯人の)彼が部屋に蓄えた6000本のビデオテープをもって、彼が裁かれるのであれば僕は彼を弁護する」「彼の持っていた6000本のビデオテープの中で、実際には100本ほど(約1%)しかなかったホラー作品や性的ビデオに事件の原因を求めるには無理がある」と発言。実際に1990年から1997年に行われた一審では犯人の特別弁護人を務めた(二審以降は弁護団からは距離を取りつつも、一般傍聴人として裁判所に通い続け、2006年1月17日の最高裁での死刑判決時も、傍聴席で判決を直接聞いている)。
1990年代1990年、大塚英志は自分の事務所の名称を「物語環境開発」とした。「物語環境開発」というネーミングのうち、「環境開発」とはバブル時代によくあった地上げ屋の会社名であり、自分は「仮想現実の地上げ屋」であるという皮肉が込められている。一方、「物語開発」とは、ハリウッド映画にて脚本作成の前段階でのストーリーの企画開発を意味する映画用語の「Development Stage」を日本語に意訳したものであり、自分はストーリー開発の専門家であるという自負が込められている。
1992年、大塚英志は太田出版より「太田COMICS芸術漫画叢書」というレーベルを立ち上げ、吾妻ひでおの漫画『夜の魚』、『定本 不条理日記』の二冊を刊行した。これは太田出版の名義を借りただけで、大塚の自費出版だった。特に『夜の魚』のあとがき漫画『夜を歩く』は、後の吾妻ひでおの代表作『失踪日記』第一話になり、吾妻ひでおは大塚英志にこの原稿を宅配便で送ったその足で『失踪日記』で描かれた2度目の失踪に入った。
1992年9月14日、角川書店社長角川春樹が、角川書店副社長であり大塚英志の上司でもある角川歴彦を、角川書店副社長職および角川メディアオフィス社長職から解任して、角川書店から追放した。角川歴彦は直ちに角川書店の子会社の角川メディアオフィス全社員71人のうち、70人の社員を引き抜いて出版社メディアワークスを立ち上げたため、角川書店の社長と副社長の対立は、後世に「角川騒動」と称される同社の分裂騒動に発展した。大塚英志はこの時点でも角川メディアオフィスの正社員ではなく、フリーの編集者の立場だったが、分裂騒動に首謀者の一人として参加しており、2017年の著作『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書)にて、その内幕を詳細に語っている。
角川歴彦が解任されたその直後から、大塚英志を含む歴彦派の人間は、角川書店で仕事をしている作家やライターと、独立構想と独立後の版権移動について交渉を開始していた。大塚の回想によると、角川メディアオフィスの編集部の人間が私立探偵に尾行調査された疑いがあったため、角川メディアオフィスの秘密会議では外部に情報が漏れないように合言葉を使って、角川書店を分裂させるための謀議を行っていた。
当初は歴彦派がメディアワークスを立ち上げるのに必要な取次口座の当てがなかったため、大塚英志は評論を何冊か出版した付き合いがあり、当時経営不振に落ち込んでいた出版社弓立社の取次口座を、『魍魎戦記MADARAシリーズ』の印税をつぎ込んで購入しようとしたが、結局主婦の友社の口座が使えることになったのでこの計画は実行されなかった。
大塚英志は同時期にぴあ総研にて「特別研究員」として働いていた時の人脈を使って、メディアワークスの資本金の一部の資金調達も行っており、ゲームセンター経営の企業のオーナーの「三浦さん」という人物から、数千万円単位の出資を取り付けていた。この時に大塚は「三浦さん」にメディアワークスに出資して貰うための保証として、その出資額の1割に相当する金額のメディアワークスの株を自費で購入した。そのために、この時期のメディアワークスの雑誌の一部では、大塚の原作漫画が掲載される時に大塚の肩書が「株主原作者」とクレジットされていた。また、この時に大塚が購入したメディアワークス株は2017年の時点で全部そのまま保有しているとのことである。
1992年10月に、角川書店の子会社の角川メディアオフィスの全社員71人のうちの70人が、角川書店本社に事前予告なしで突然一斉に退職した。事態に気づいてパニックになった角川書店本社側の人間が、漫画家や小説家やライターにお詫びとご説明の電話をするが、大塚英志を含む歴彦派の人間があらかじめ根回しをしていて、「お前の会社はどうなっているんだ!そんな雑誌には、もう書けない」とわざと激怒して、強引にメディアワークスに掲載紙を移籍させた。特に角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』では、ある日突然、編集部の編集者全員と連載していた漫画家のほとんどが、メディアワークスの新雑誌『月刊電撃コミックガオ!』に移籍したため、角川書店本社側に攻撃的な打撃を与えることになった。この時大塚英志は、分裂騒動の事情も知らずに突然抜擢され、編集部がほとんど誰もいなくなった状態で『月刊コミックコンプ』を立て直さなくてはいけなくなった同紙の新編集長に同情して、『月刊コミックコンプ』にて新連載漫画の原作を「雑誌のページが埋まれば内容は何でもいい」という条件で引き受けた。こうして大塚英志は、日本の天皇制を題材にしたSF漫画『JAPAN』(作画:伊藤真美)や、柳田民俗学を題材にした伝奇漫画『北神伝綺』(作画:森美夏)、巨大な壁で封鎖された都市で17歳の少年少女達が大人たちと戦争させられる『東京ミカエル』(作画:堤芳貞)といった自分が本当にやりたかった漫画を角川書店分裂の混乱のどさくさで角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』に連載させることで、ゲームやアニメのメディアミックス狙いの漫画原作者で終わりたくないという個人的な野心を実現させた。
1993年8月29日、角川書店社長角川春樹が、コカイン密輸事件で麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部(千葉南警察署)により逮捕されるというアクシデントが発生する。これにより角川歴彦の角川書店への復帰が決定し、同年10月角川歴彦は角川書店代表取締役社長に就任した。こうして1年に渡って続いた角川書店の分裂騒動は大塚英志の所属する歴彦派の逆転勝利で唐突に決着した。92年に角川歴彦が角川書店から追放された時、新会社の取次口座も資本金もなく、新しい編集部の受け入れ先のビルも決まっていない状態で、角川歴彦は完全に失脚する寸前まで追い込まれていた。大塚英志はこのような危機的状況で逃げずに角川歴彦を支えた部下の一人だったため、93年以降の角川歴彦支配体制下の角川書店において、評論家・漫画原作者・小説家として厚遇された。また、その後の角川書店は、大塚に評論家としては書きたいことを好きなように書かしてくれたが、これは大塚の発言によると、漫画原作者・小説家として一定以上の商業的な黒字が出せていることが絶対条件だったとのことである。
1994年、大塚は評論『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』(法藏館:1994年) でサントリー学芸賞を受賞した。このことについて、大塚英志は半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』にて「あれは選考委員の一人が、青木雄二の「ナニワ金融道」に賞を与えようと言い出して、しかしさすがにまんがを受賞対象にはできない、ああそういえば大塚のまんが評論があった、という冗談みたいな経緯で選ばれてしまったにすぎない。実話である。」と述べている。
1995年、大塚は原作漫画『聖痕のジョカ』(作画:相川有。1993年 - 1995年連載)の読者コーナーの常連投稿者だったひらりんを大塚の事務所である「物語環境開発」にキャラクターデザイナーとしてスカウトした。ひらりんは『新・聖痕のジョカ』(1995年 - 1997年連載)以降の大塚作品のキャラクターの設定デザインを担当している。また、大塚の著書『物語の体操』『キャラクター小説の作り方』にはひらりんの描いた、キャラクターの設定資料の一部が収録されている。
1997年、大塚英志は角川書店の雑誌『月刊少年エース』1997年2月号よりサイコサスペンス漫画『多重人格探偵サイコ』(作画:田島昭宇、1997年 - 2016年連載)を開始した。同作は『月刊少年エース』1997年1月号より連載スタートの予定だったが、第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写があり、これを見て本気で激怒した角川書店の役員が輪転機を止めたため、当初1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで連載をスタートした。同作は連載が10年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作は大塚英志のプロデュースで、小説・テレビドラマ・ドラマCD・新劇等へ幅広くメディアミックス展開された。
1998年4月より、大塚英志は文芸誌『文學界』(文藝春秋)にて、批評家の江藤淳の推薦で文芸評論『サブカルチャー文学論』の連載をスタートした。同連載は『文學界』2000年8月号まで連載されたが、小説家の石原慎太郎の文学作品を論じた回が編集部から掲載拒否されたのがきっかけで、連載打ち切りになった。その石原論は2002年の第1回文学フリマにて手書き原稿で発表された。また、『サブカルチャー文学論』は2004年に版元を朝日新聞社に変更して、最終回を書き下ろしで追加して単行本化された。
2000年代2000年代以降は、東浩紀と批評誌『新現実』を創刊したり、市川真人と文学作品展示即売会『文学フリマ』を主催したり、柳田民俗学と自然主義文学、社会進化論、ナチズム、オカルティズムとの関係や小泉八雲の民俗学者としての
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